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手長神社 [歴史]

昨日の神社探索で印象に残った神社です。
地域の神社としては非常に立派な造りでした。
しかし、行き着くには・・・・
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長い石段が・・・
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ようやく上の鳥居が見えてきたと思ったら
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まだ石段が・・・
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おおやっと着いた
と見せかけて
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また石段・・・・
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拝殿が見えてきた。
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なんと本殿は神明造り。仁科神宮同様の旧来の型。
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左片拝殿もきちんとした造り
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右片拝殿に回廊が続いているので奥まで行って見る。
うーむこの形式は諏訪大社上社本宮に似ている。
おおっ何か祠がある。
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聖徳神社。
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なぜシャチホコ????明治に入って高島城が解体されたときに天守のシャチホコを奉納したのか??などと思ったけれど昭和初期に高島城再建計画があり、頓挫したのですが、その時焼かれた瓦製のシャチホコだそうです。
今の高島城のブロンズ製シャチホコより風情があって好きだなぁ。

諏訪大社探索 [歴史]

NETの爆弾さんが北海道の諏訪神社を紹介してくれたので、本家の方に言ってきました。

まずは春宮

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うーん改装中。
でも道のど真ん中に「勅使殿」(?)らしきものがw
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と言うわけで秋宮へ移動。
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こちらの方が大きいので見ごたえがあります。
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拝殿の正面。雪をよけながら神楽殿の軒に逃れて撮ったら斜めだw
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左の片拝殿
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こちらは右側の片拝殿
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拝殿の説明です
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これが本殿。珍しい造りです。春日造りを横向きにした感じ。
神様に出てくるなと言わんばかりです。
更に決定的証拠が
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天敵、鹿島が・・・・
巨大な神楽殿。国の重文です。
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春宮は善光寺より余程「国宝」にふさわしい建築物だと思うけれどなぁ。

更に諏訪湖の対岸にある上社にも足を伸ばしてみる


散歩 [歴史]

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昼なのに日陰はこんな感じ

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池も氷が
そんな状況にも負けずに神社へw
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ここの神社は丘というか山の中にあるんです。

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えらいぞちゃんと雪がのけてある。でもこの急斜面は・・

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ダッシュで上る。
やっと見えてきた
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規模は小さいけれどナカナカきちんとしている八幡さまでした。

八幡さま→戦いの神ということで近くの首塚に行くことにする
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全然たいした物ではないのですが、信玄に小笠原氏が攻撃して返り討ちにあって、信玄が首実検した後遺体を放置してあったので、この辺りの村人が一箇所に集めて墓碑を作ったらしい。
手を合わせてきました。

更にそばにあった寺へ。
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県だか市だかの重要文化財指定を受けている薬師堂?茅葺です。T.Nとしては薬師堂?の敷地内に神社があることのほうが余程、歴史的に面白いと思うのですけれど。

遺跡発掘現場 [歴史]

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遺跡発掘現場に行ってみた。発掘後埋めて遺跡公園とするらしい。
だれも発掘してないし。
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土器が出ているみたいだ。
発掘が終わったところを整地している土建屋がおる。
これは文化事業じゃなくて土木事業なんだろうなとか思いつつよけられた土の山を発見
その中からこんなものが
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ちゃんと発掘しろよな。
元々この辺りは葡萄畑で土器片がゴロゴロしてたんだから。2418982
葡萄畑もすっかり冬仕様だ
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バカな学生に燃やされた復元住居を作り直している
萱葺きちゃんとできるのかなぁ・・・


近所の神社 [歴史]

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大きい神社ではないのですが
ここから銅鐸が出土しているところがすごい。
だからなんだと言われるとまぁそうなのでしょうけれど。

ところで銅鐸って何に使ったんでしょうかね

文化財:堀内家 [歴史]

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重要文化財だそうだ。
江戸時代の豪農の家らしい。

アホかと [歴史]

祇園の元芸妓が妓生研究 宴席もてなし 日韓文化比較 京都市・祇園の元芸妓(げいこ)で、現在は華道家や「祇園文化の案内人」として講演活動などを続けている桐木千寿さん(57)が29日、九州大大橋キャンパス(福岡市南区)である日本比較文化学会で研究発表する。テーマは「祇園芸妓と韓国妓生(キーセン)-もてなしの日韓比較文化論」。同じ花柳界に身を置いた女性として両者の歴史をひもとき、見えてきた共通点と違いを紹介する。  ●華道家・桐木さん、学会で発表へ 歴史ひもとき違いまとめ  15歳で舞妓(まいこ)「豊千代」として祇園に入り、36歳で引退した後も華道、茶道、鼓、京舞と芸道に精進してきた桐木さん。“研究者”となるきっかけは、芸妓時代の35年前にさかのぼる。  お客さんと旅した韓国・ソウルの宴席で、美しいチマ・チョゴリを着た妓生の女性たちと接した。帰国後に、妓生は古く高麗時代(918-1392)に始まり、かつては歌舞芸能だけでなく、漢詩や書など高い教養で貴族を楽しませたことを知った。宮廷で女医を務めたり、政治や外交の場でも重用され、16世紀には黄真伊(ファンジニ)という女性詩人も活躍。だが変転する時代に翻弄(ほんろう)され、その姿を変えていった。  日韓の違いに関心を持った桐木さんは、5年ほど前から文献を取り寄せて本格的に調べ始めた。6月に京都大で祇園文化の講演をした際には、学会員の丸橋良雄同大教授から協力を得ることに。丸橋教授の教え子で釜山大に勤める研究者から助言を受けながら、歴史だけでなく、芸妓と過去には妓生にもあった養成学校に違いがあったことなど、比較論をまとめた。  桐木さんは「元芸妓が学会で発表するのは初めてだそうですが、励ましていただきお引き受けしました。発表が、かつての妓生の豊かな文化の見直しにつながれば」と話している。  29日の学会では16の研究発表があり、桐木さんの発表は午後5時すぎから5号館で。聴講するには、当日会員として1000円が必要。


:拾い物↓
李朝時代の身分には、   両班  中人  奴婢 そして奴婢の分類の中には 妓籍いわゆる妓生の身分がありました。 妓生は奴婢随母法にて規定された身分「妓籍」に属する女性達を指しました。 妓生は妓生庁という役所にて所有・管理されていました。 妓生は三階級に分けられており、一牌、ニ牌、三牌という分類になり。 一牌は官位を与えられる者もいたようですが、三牌にいたっては単なる売春婦でした。 日本の芸者と妓生を同一視する韓国人も多いようですが、芸者は職業の一種であり、 妓生は世襲される身分である事に大きな違いがあります。


祇園についちゃぁよくわからんけれど、柳橋の芸者さんたちは「芸は売っても身は売らぬ」と言う心意気が江戸時代末期にはあったわけで、ナンボなんでも比較すればよいと言うもんじゃないだろうと。

李朝期のキーセンと共通した制度(世襲制の遊女)など同時期の江戸時代にあったんだろうか???
欧州でも18世紀末くらいのトップクラスの娼婦というのは政治的に力を持っていたし、(バイエルン王国のルードヴィッヒ1世の駆け落ちした相手というのも娼婦あがりだしw孫の2世はワーグナー狂いw)教養も比較的高かった。
日本の花魁なんか客の上座に座るのがしきたりになるし、太夫とでもなれば相当な力を持つし。(日本の健全なのは遊郭の中にその権力を封じ込めたことだと思う)。
そういえば日本の遊女を「散茶」などと言っていたんですが、高麗茶道では座のリードをする人を「閨秀」とよんでますねぇwいやぁなんて奇遇ww大体「閨秀」ってどんな茶道だよw・・・んんん?茶屋遊びの起源は韓国w




「黒い霧」事件 [歴史]

アサヒが社説にプロ野球コミッショナーのことを書いていたけれど、「新コミッショナー―「野球大使」への注文」
>本当に最高経営責任者として働こうとすれば各球団と対決せざるをえないことも覚悟しておいた方がいい。さらに地方の独立リーグや高校野球、学生野球まで含めた日本の野球全体の将来像をどう描くか。構想力と行動力が新コミッショナーに問われている。
アマの協会のわがままが過ぎて統一した組織になってないのに無理を言うなとしか。

黒い霧とアサヒは関係ないだろって?まぁないんですがね。
事件の顛末はここが詳しいです
T.Nが気になるのは2点。
「読売は途中でトーンダウンし後半からは朝日新聞が激しい糾弾キャンペーンを展開する」
『小川は、「オートレースの疑惑は自分にも非があるので、ある程度仕方がないが、プロ野球の試合では、断じて八百長はしていない。
これは讀賣グループの陰謀で、他に疑惑の選手がいたが、若かったので、先のない私を連盟は生け贄にした。」と語っている。』

想像を豊かに書いてしまえば
読売は自チームの有望選手がかかわっていたのでトーンダウン
朝日は読売の選手がかかわっている可能性をかぎ付け糾弾キャンペーン
なんにしても田中勉への処分が甘い。
何か裏取引があったとしか思えないな。

JFK暗殺:死のルート選択 [歴史]

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ウォーレン委員会はメインストリートを迂回したルートを「不法な迂回をしないで済むので的確」としているけれど、パレードなどは交通封鎖をかけるのが普通で「不法な迂回」も構わないと考える知性は持ち合わせていなかったようだ。
「不法な迂回」の原因とされたパイプもダラス市民は平常乗り越えて通行しており、パレードの邪魔になるものではない。

上の図を見てピンと来た方もいると思うけれど。
オズワルドは正面から向かってきて目の前で減速しているところではなく、通り過ぎてから撃っている。
これは狙撃手として異常な行為のような気がしますねぇ。
T.Nだったら正面を向いて減速しているところで撃つ。
ひょっとしたら、オズワルドは撃ってさえいないんじゃ・・・
オズワルドの頬から硝煙反応が出ていないことが証明しているじゃないか!
ライフルをスコープを覗いて撃つ場合、頬から硝煙反応が出るのは当然。
オズワルドはJFKを撃っていない可能性は高い。

チベット [歴史]

中国の古代史では吐蕃ですね。
元(モンゴル)の使用した文字もチベット文字の変形らしいです。
元気だった頃のチベットは中原まで攻め込んで、長安を占領したりもしてます。
唐と不可侵条約を結んだりしてます。
元との関係はかなり複雑で、皇帝の正当性をチベットのパスパが保障する替わりにパスパのチベット支配を元が保障するという相互依存。チベットが元に朝貢したり、徴税を受けていないので支配されたとは言えない。
明にいたってはほとんど関係がない。チベットの高僧が訪問した記録はあるものの、チベットの政治に関わった僧ではないために朝貢という形ではないことが容易にわかります。
清になると元の時代同様不思議な関係になる。順治帝は来訪したダライラマ5世を自ら向かえ、お互いに称号を与え合ったりしているので、この当時も独立国であったことがうかがえます。その後内乱でチベットは乱れある程度、清朝の支配がある程度及ぶものの、ネパール、カシミールなどの紛争により清朝の勢力もチベットからひいてしまう。そしてネパールが侵入し清朝が派兵したあと、乾隆帝の出したチベットに対する布告はチベットの内政改革であることから、チベットに支配権を確立していないことが容易に理解できる。
例えば日米安保を何度も発動させれば米国が「いい加減にしろ」と日本にクレームをつけるくらいなモノだと考えれば良い。

その後、清は英国の影響を強く受けるようになったチベットを攻め、ダライラマを一時的に追い出すことに成功するものの
清朝が滅亡し、占領軍が降服した。

第二次大戦中は中立国であったことも明記しておきたい。

チベットは歴史を通じて朝鮮半島の王朝と比較すれば、独立性が高い国であったと言える。

moz-screenshot-1.jpg     朝日新聞のサンゴ捏造  記念日は4月20日
人権擁護法案に猛烈に反対してます ブログを作る(無料) powered by SSブログ national_flag2.gif

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